警官と機動隊だらけ
水道橋、神田、一ツ橋あたりを走っていたら、警官と機動隊だらけでした
装甲バス、警視庁マークのクレーン車など特殊車両もいっぱい。
立哨している警官に「何の警備ですか?」と聞いたら
「きょうは終戦記念日なんで・・・」という答えが返ってきました。
靖国神社から数キロ以内は警官と起動隊を大量投入しているようでした。
67年前の8月15日(玉音放送)
おじいさんから、昭和20年8月15日の話を聞きました。
当時中学生だったおじいさんは、疎開先の2階で終戦の玉音放送を聞いていたそうです。
親や大人は居なくて、たった一人で聞いたので、何の意味か解らなかったそうです。
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」などの言葉から、悲壮感は伝わってきたそうです。
「米英ソ支」という言葉も不自然で、いつもは「米英」と「米英」という言葉は聞くけど、ソ支というのは聞いたことが無いので、また新しい戦争が始まったのかな???とかも思ったそうです。
「ポツダム宣言受諾」というフレーズは聞き取れたけど、ポツダム宣言が何かわからなくて謎は深まるばかりだったとのこと。
ラジオ放送でも、ニュース解説などはなく、大人はだれも何も教えてくれなくて、何だったのかはわからなかったそうです。 短刀と青酸カを配布
戦争に負けたということが判ったのはそれから2,3日後の事だそうです。
婦女子には短刀と青酸カリを配るということになったとのこと。
敵が攻めてきたら、短刀で戦えというのではなく、辱めをうけることなく自殺するようにということらしいです。「当時は、みんな集団自殺が好きだったからね」と明るく言ってましたが、ビックリです。 当時、召集された老年兵が北の山に穴(たぶん防久壕か、地下基地)を掘っていたそうです。 その老兵を指揮して威張っていた下士官連中は、8月15日までは、裏の家の2階で昼間から酒を飲んで威張っていたそうですが、15日以降は老年兵たち宿舎になっていた小学校に入ったきり出てこなくなったそうです。 民間人は自殺の準備をして、軍隊は宿舎に引きこもり。 これで戦争に負けたことが判ったと言っていました。 「負けを知ったというより、敵が攻めて来るのに軍隊が出てこないんだから、負けたのだろうと思った」と言っていました。
67年前の8月は、こんな状態だったそうです。
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